「脚下を看る」
足元を見る。
イデアにある『岩波国語辞典 第六版』には、「弱みを見透かす」とある。イデアの小学生が使っている三省堂の『例解 小学国語辞典』には、主体が変わって“足元を見られる”の解説が載っていて、「弱いところを見抜かれる」とある。どちらにしても、ポジティブな意味ではないらしい。
似たような言葉に、仏教用語の「脚下きゃっかを看みる」というものがある。僕の実家は曹洞宗のお寺の檀家で、4年前に亡くなった僕の祖母は、早くに夫(僕の祖父)を亡くしたこともあってか、仏教に対して非常に信心深かった(幸か不幸か、僕は祖母の影響はあまり受けずに今もって信仰心は薄いようだ)。そして、そのお寺の住職さんには非常に可愛がってもらったものだった。
この菩提寺の宗派である曹洞宗は、黄檗宗、臨済宗とともに「日本の三大禅宗」などとも言われる。この3つの宗派が共通して大切にしていることは、「座禅」という修行である。
座禅とは、正しい姿勢で座って精神を統一する修行のことを言い、その最中は完全に目を閉じることはせずに半開きにして、足元に視線を向ける。もう何年も前になるが、子どもの頃に可愛がってもらった住職さんと、この座禅の話になったことがある。
「禅語では、“己が立脚しているところを見失わない”という意味を指す『脚下を看る』という言葉があって、それを体現するひとつの形が座禅という修行だ」という内容のお話しだった。「足元を見る」とは、“人の弱みを見透かすこと”を指す言葉だが、「脚下を看る」とは、“自分自身と正対する”ことを指すのであり、この2つの言葉は、いわば正反対の意味らしい。
「人のせいにするんじゃない」とは、よく大人が子どもに対して言う言葉のひとつだが、実は、大人でもそれは難しい。自らを顧みる前に人の批判をしたり、自らが所属する組織を内側から検証することなく、外側の組織の「足元を見て」批判をし、自らの組織を正当化したり(あるいは、自らの組織の欠点をなかったことにしたり)、自分の環境を変えられない理由を、自分以外に求めたり。しかも、SNSをはじめとした情報発信ツールが発達した現代社会では、それを一方的に、いとも簡単に自らを正当化して発信できてしまう。声高に子どもの人権を守れと叫ぶ大人が、自分が関わる子どもの人権を尊重しているか、という自省をしないことは、よくある話である。
その点、イデアの子どもたちは素直だ。勉強していて、わからないことを他人のせいにはしない。中学生は特に、勉強が苦手であることを環境のせいにしたり、他の要因のせいにはしない。小学生はもちろん喧嘩もするが、そのほとんどは、考えと考えのぶつかり合いであり、そんな時は、大人はそっと見守っている。考えと考えのぶつかり合いなので、どっちが悪いという問題でもなく、話し合って解決していく。たとえ1年生でも、その術を身につけていってもらおうと思っている。
「脚下を看よ」と、子どもたちの素直さが、この現代社会に生きる大人たちに教えてくれているのかもしれない。
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