「スマホという怪物」
イタチごっこ。
スマホと子どもたちの関係を見て、いつもそう思う。
私ごとながら、高校2年生の時、2つ上の先輩とお付き合いをしたことがあった。その先輩は保育士を目指して道内のある短大に進学して故郷を離れたので、いわゆる遠距離恋愛だった。僕の高校時代は、携帯電話が高校生にも普及し始めた頃で、クラスではそれを持っている人間と、持っていない人間が半々くらい。僕は後者で、お付き合いをしたその先輩との連絡手段は、家の電話を使って話しをするか、手紙だった。家の電話なんて何分も独占してられないから、主な連絡手段は手紙。親に頼み込み、週に一度、日曜日の夜に30分だけ電話で話せる時間があった。
相手は今何を思っているのか、今日はどんな1日だったのか、今どんなことに悩み、どんなことを楽しんでいるのか。そんなことを思いながら手紙を書き、投函した後は、返事が来るのは早くても1週間ほど後。でも、手紙を書いている時間は何物にも変えられない時間で、返事を今日か今日かと待つ毎日。学校から帰ると、自分の部屋の机の上に置かれた、相手の手紙の封を切る瞬間のドキドキ感を思い出すと、僕も一端に青春を謳歌していたんだな、なんて気にもなる。
“文通”なんて言葉は、今や死語だろう。スマホがあれば、いつでも電話ができるし、LINEでメッセージのやり取りだっていつでもできる。手紙を出して返事が来るのが1週間後、なんて時間をかけずにコミュニケーションをとることができる。すごく便利な世の中になったし、僕もスマホがなければ仕事にならない。でも、便利さと引き換えに、相手の気持ちに思いを馳せ、一つひとつ丁寧に言葉を選ぶという、とても楽しく、とても大切な“相手を尊ぶ”という時間は、携帯電話の普及とともに失われていったのだ。LINEで、あるいはSNSで、吟味されない言葉が巷に溢れ出て、時に人を傷つける。そして動画の視聴やゲームは、何時間もの子どもの時間を浪費させる。
まだ捜査中なので軽々なことは言えないが、静岡県牧之原市で起こった事件は、16歳の娘と母とのスマホのトラブルだったという。「殺人事件の動機は、そのほとんどが金銭トラブルか恋愛問題」と言われていたことも、もう過去になってしまったのかもしれない。
僕はよく、保護者の方々に「今後、生活の中でスマホが消えてなくなることはないので、与えないことでも取り上げることでもなく、スマホと上手く付き合っていく術を身につけさせることが大切です」と申し上げている。上手くスマホと付き合えることができれば、何の問題もないのだ。しかしあえて、賛否両論があるであろうことを前提にいう。自己抑制が効かないなら、スマホは持たせるべきではない。“ルールを守り、やるべきことの順序を守れる”というのが、スマホを所持できる最低限で、かつ最大の条件なのではないか。
そんなことを考えた今日、僕はスマホで小沢征爾が指揮するウィーン・フィルの「ラデツキー行進曲」を聴きながら、高校生に古文の課題として出した問題を解いてみた。すごく捗る。やっぱり、僕にもスマホは必要なようだ。
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